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しまね連れづれ草

 

2017年4月号

『出雲国風土記』はもともと『出雲国風土記』ではなかった?

    3月25日から、古代出雲歴史博物館で開館10周年記念企画展「出雲国風土記―語り継がれる古代の出雲―」が開催されますが、その展覧会名にある『出雲国風土記』がもともと『出雲国風土記』ではなかったと聞くと、頭に?が浮かぶ人も多いのではないでしょうか。

    先月号の「しまね連れづれ草」でも触れたとおり、和銅6(713)年、産出する鉱物や生息する動植物、土地の状態、山川原野の名の由来、お年寄りが伝える昔話や珍しい話などを記録し、提出するように命じられ、各国でつくられたのが「風土記」です。そのため、「風土記」は、内容としては地誌、郷土誌のようなものですが、あくまで中央への報告書です。当時、下位の者が、上位の者に報告する文書は、「解」(げ)という書式に則っとるよう規定されていました。現在の茨城県にあたる常陸(ひたち)国の「風土記」は、その冒頭に「常陸国司解 申古老相伝旧聞事」とあります。これは、現在の茨城県知事らに相当する常陸国司がお年寄りの伝える昔話について報告申し上げますという意味で、「解」の一例です。つまり、『常陸国風土記』は、もともと「風土記」とは記されておらず、その文書は「解」という書式で、中央へ報告されたものだったのです。

    この点は、出雲国の国勢調査報告書である『出雲国風土記』も同様であった思われます。そもそも「風土記」という文字が確認できるのは平安時代であって、実際に「風土記」がつくられ、中央に提出された奈良時代には、「風土記」という表記はないのです。さて、これで『出雲国風土記』がもともとは『出雲国風土記』ではなかった?という、一見おかしなタイトルの疑問も解決したでしょうか。そして、「風土記」とあえて「 」で記し、“いわゆる”という意味をもたせていたのも納得いただけたでしょうか。

    企画展「出雲国風土記―語り継がれる古代の出雲―」では、このような「へ〜」と思うような『出雲国風土記』に関する豆知識もコラム形式で紹介しています。展示作品はもちろんのこと、「風土記」についての雑学にも出会いに、是非、古代出雲歴史博物館にお越しいただければと思います。 

(古代出雲歴史博物館 吉永壮志)