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しまね連れづれ草

 

2017年2月号

出雲への神集い伝承5 縁結び

    昨年の6月号からの続きです。本号では縁結びについて紹介します。
    出雲大社での神集いにおいては、様々な縁を結ぶ神議りがなされるとされますが、その結ばれる縁の中で有名なのは男女の縁です。民間伝承をみますと、出雲への神集いの目的において一番多いのもこの縁結びで、その伝承は中国地方を除いてほぼ全国に分布しています。

    それではなぜ出雲(大社)で縁結びがなされるという伝承が成立してきたのでしょうか。民俗学者の石塚尊俊(いしづかたかとし)などによれば、中世において出雲大社は福神とみなされており、これに縁結びで有名だった京都府上京区に祀られる出雲路幸神社(いずもじさいのかみのやしろ)の御神徳が、出雲という言葉を通して結びついて成立したものとされています。この過程が推測される資料に享保2年(1717)の『雲陽誌』があります。その「杵田大明神」(長海神社)の項に次のように記されています。

    弁慶の母辨吉(べんきち)は容姿などから20才になるまで夫がなく、両親が悲しんで、出雲国結の神に参詣させる。辨吉は出雲に赴いて結の神へ参詣、そこで、枕木山の麓に7年住めば夫を得させるとの夢告を受ける。やがて20才位の山伏が来て「我は是出雲の神の結にて汝を妻と定りそする」と歌い、やがて弁慶が生まれる。

    有名な弁慶伝説なのですが、ここで「出雲国結の神」が縁結びの神として登場しています。後の18 世紀半ばの『出雲鍬』では、辨吉は「結の神」として能義郡妻の神村の妻の神に参詣したことになっています。この妻の神は、現安来市西松井町の出雲路幸神社とされ、当社はすでに『雲陽誌』において京都の出雲路の道祖神と同社と記されています。このように見るならば、少なくとも弁慶伝説における「結の神」は、この出雲路幸神社と見ることができ、ここに石塚などが指摘するように出雲路幸神の信仰が、地域としての出雲に転嫁された過程を見ることも可能なのです。

    しかしながらこの「結の神」は別の文脈でも登場してきます。承応2年(1653)頃の『懐かいきつだん橘談』では、「出雲の国むすぶの神とはいかなる故にや」と問いを発し、イザナキ・イザナミを挙げ、「日域男女の元神なれば、此陰陽の神をいふなるべし、夫婦配偶は神力によらずばあるべからず」として、この二神を前提として、結の神を解釈しようとしています。ところで永禄7年(1564)の謡曲「神あり月」には、「出雲はかミの父母にて 毎年日本のかみかみ出雲にあつまり給ふ」と記され、また天正11 年(1583)の神魂神社の資料には「日本ハみな神國といひなから、いさなき・いさなみ御天神影向之所(中略)、御かけを世界に廣めたまふニ仍、出雲の國と号せられ」と記されています。これらの資料からすれば、中世末において、神々の父母としてイザナキ・イザナミが出雲に祀られていると考えられていたと捉えることができ、したがって、このことが出雲国結の神、すなわち出雲の縁結び信仰の発端になっているとも考えられるのです。

(古代出雲歴史博物館 品川知彦)