出雲神楽 石見神楽

 神楽の語源は、神座(かみくら)という神が坐す場所とされます。そこに神様を迎えて祭り、そこで舞われる芸能が一般に神楽と呼ばれています。したがって、獅子舞(ししまい)が神楽と呼ばれる地域があるなど、同じ神楽という言葉を用いても、地域によってその内容は異なります。
 島根県では、面をつけずに剣などの採り物を持って舞うものや、面をつけて神話の内容を舞うものなどが、一般に神楽と呼ばれています。島根県は神楽が盛んな地で、県内には200を超える神楽の団体があります。地域によって特徴が異なり、大きく分けて出雲、石見、隠岐の3つの地域にそれぞれの神楽が伝承されています。
 近世では神楽は、基本的に神職(隠岐では社家(しゃけ)という専門の神楽師)によって舞われていましたが、明治初年、神職が神楽を舞うことが禁じられ、神職から手ほどきを受けながら氏子が神楽を受け継ぐことになりました。このことが、現在見られるような、多くの団体による神楽の伝承につながっていきました。なお、のちに神職神楽の伝統を復活させた団体も存在しています。
島根県の神楽は地域に密着したものが多く、子どもの頃から神楽に親しむ風土があり、子ども神楽の活動も盛んです。子どもから成人になっても神楽を伝承することが多く、これが島根で神楽が活発に舞われる要因の一つになっています。

 

出雲の神楽

  出雲の神楽の特徴は、基本的に「七座(しちざ)」「式三番(しきさんば)」「神楽能(かぐらのう)(神能(しんのう))」の三段構成をとっていることです。この構成は、基本的に松江市にある佐陀神能(さだしんのう)(国重要無形民俗文化財・ユネスコ無形文化遺産)の影響を受けています。佐陀神能は、十七世紀の初め、当時都(みやこ)(京都)で流行っていた猿楽能(さるがくのう)の方式を取り入れました。七座とは面をつけない舞で、さまざまな採物によって場を清め、神を勧請するものです。式三番は祝いのための儀式舞です。神楽能は大蛇(おろち)退治など神話等を題材とした演劇風の舞で、基本的に面をつけて舞われます。面をつけることは、神の出現を意味しているのです。また、奏楽(そうがく)のテンポはおおむね緩やかで、荘厳(そうごん)な舞です。
また出雲各地には、佐陀神能の影響をうけていない演目や演出法、舞台飾りなどを残している団体も数多くあり、多様な神楽が存在しています。

 

石見の神楽

 石見は島根の中でもとりわけ神楽が盛んな地域です。出雲の神楽の三段構成のような型式は統一されておらず、神楽能の後に、面をつけない儀式(ぎしき)舞がなされる場合もあります。
石見の神楽は、明治以後に行われた様々な改革によって、娯楽的要素の強い派手な神楽に変化しています。衣装は華美(かび)に、調子は以前からあるゆったりとした六調子(ろくちょうし)に八調子(はっちょうし)と呼ばれる早調子が加わり、面は激しく舞うために軽い和紙の張子面に変わり、また花火やドライアイスの使用も見られます。演目も日本神話の神々や歴史上の英雄たちが、人に害をなす悪鬼(あっき)たちを退治する、わかりやすくて面白い勧善懲悪(かんぜんちょうあく)劇が多いことも大きな特徴です。また石見中東部の山間部に残っている大元(おおもと)神楽では、独特の演目や神事儀式が、六調子というゆっくりとした調子で行われます。また石見西部には、1間(1.8m)四方に限って舞うという特徴をもった神楽もあります。

 


隠岐の神楽

  隠岐の神楽は、基本的に昔から神楽を舞うのは神職ではなく社家(しゃけ)という神楽を専業とする家系が神社の祭礼を始め、雨乞(あまご)いや大漁・病気平癒(へいゆ)など各種の祈願の神楽を行ってきました。明治になり社家が神楽を舞うことが禁じられますが、担い手が民間の手に移りながらも社家が何らかの形で神楽に関与しながら現在まで伝えられています。
島前の神楽と島後の神楽は、基本の構成は同じですが、奏楽や所作に違いがあり、島後の方が緩く、島前の方が激しく舞われます。祈願のための神楽という伝統から、隠岐の神楽では巫女舞(みこまい)が重視されています。

子ども神楽

島根では、子どもの頃から神楽に親しむ風土があり、伝統継承あるいは地域振興のために子ども神楽の活動が盛んです。神楽団の下部に子ども神楽団を組織する団体、地域で単独で子ども神楽を組織する団体、公民館や学校単位で活動する団体など形式は様々ですが、県内に150団体以上の子ども神楽の活動が見られます。

このサイトは、島根県に伝わる伝統芸能”神楽”の紹介を行うとともに、次世代育成の取組みを紹介し、子ども神楽団体の交流・連携や伝統芸能の保存・継承につなげることを目的に開設しています。